曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

メイキング・オブ・ホット・チョコレート -きいのりこのこと- H13.3.川之江高校演劇部記念公演プログラム掲載

 『ホット・チョコレート』を書いたのは、全国大会のちょうど一年前のことだ。あの頃私は、一人で脚本を書き上げたこともなく、進むべき道も見えず、演劇から手を引くべきか本気で迷っていた。そんな中途半端な気持ちが、生徒にも伝わってしまったのだろう。あの年、春に一人の部員が転校するや、バランスを崩した演劇部は、夏に入って大量の退部者を出した。

 結果、二年生は“きいのりこ”一人になった。最高学年である二年生が一人。あとは舞台経験のない新入生である。“きいのりこ”は、まるでひるまず「全国へ行きましょう!」と言い続けたが、全国どころか地区大会への出場自体が難しかった。脚本はどうするつもりかと聞けば、「先生の脚本好きです。先生ってすごい、天才やって思う。」などと笑っている。ない袖は振れない。転校したのは彼女の親友のはずだったが、思ったより寂しそうでないのが救いだった。私には自信がなかった。これが引き際なのだと思った。

 なのになぜ、私はあの時『ホット・チョコレート』を書いたのだろう。

 あの夏、彼女が制服の胸ポケットから手紙を落としたからだろうか。転校した親友からの手紙だった。偶然その日持っていたのか。ずっと持ち続けていたのか。一言も寂しいとは口にせず、誰の悪口も言わず、そばにいもしない女友達の手紙なんかを心の支えにして、彼女は毎日笑っていたのだ。人生に逃げてはならない時があるとしたら、私にとってはあの時がそれだったのだと思う。私は、彼女が主人公の、親友が転校する芝居を、書かなければならなかった。書ける書けないではなくて、書かなければならなかったのだ。そうでなければこの世界は生きていくのに哀しすぎた。

 引退していた三年生を呼び戻して、キャストを組んだ。一人ぼっちだった“きいのりこ”を彼女らは温かく包み、まるでその温かさが伝わるように、地区大会、県大会、四国大会と、『ホット・チョコレート』は観客に、審査員に、愛されていった。三人の卒業を私がああも嘆いたのは、優秀な役者を失うという理由からだけではない。あそこまでの温かい結びつきを、もう一度得られるとは到底思えなかったからである。

 春が来て、“きいのりこ”は三年生になった。キャストを組み替えて全国への練習を始めた。先輩の中で目立たなかった彼女の演技は、後輩の中では群を抜いていた。いや、実際彼女はこれほどうまかっただろうか。練習中私は「こんなふうにしてほしい」というイメージを、言葉に変えて生徒に伝える。生徒は私の言葉を演技に変えて、私に見せてくれる。“きいのりこ”は私が「こんなふうにしてほしい」と思う、まさにその顔を、その声を、いつも私に見せるようになっていた。もろく危うい、偶然に過ぎないと見えるその演技を、しかし彼女は安定して繰り返すことができるのだ。彼女の演技は強烈な力で後輩たちを引き上げた。いつのまにか後輩たちは、彼女を“きいのりこ”と呼ぶようになっていた。ちょうど先輩たちが呼んでいたように、“きいのりこ”と。それは時に何かの符号のようにも聞こえる。全国へ出発する頃には、たとえ入賞しなかったとしても、彼女らほどうまい高校生はどこにもいないのだと、私は確信するようになっていた。
 
 全国の講評で、果たして、彼女らは激賞された。「幕開きから10分で泣き始めました。」「私たちはこういう芝居を目指しています。」審査員の先生方の言葉はもう評価ではなく、どんなに感動したかを伝えてくれているかのようだった。「『ミオ』がつらい目にあっていたとき、転校する『キッコ』が相手に向かって『あんた、くそばかなんだよ!』とどなりつけましたね、あの時、もう会場中が『言ってやれ言ってやれ!』って思っていました。」夢のような講評だった。こうして私たちは、最優秀賞を受賞したのである。

 休む間もなく東京入りして、国立劇場での優秀公演に出場し、翌日にはBSに出演するためNHKに向かった。今思うと信じられないが、静岡でも東京でも自由行動は一切なかった。他校の芝居の上演中は必ずそれを観た。空いた時間は練習ばかりしていた。それでもなぜか私たちは十二分に楽しく、この時がずっと続けばいいとさえ思っていた。

 出演したBS「青春舞台2000」は、全国大会の優秀4校を特集した生番組である。4校、百名近くの演劇部員がスタジオに招かれていた。川之江高校へのインタビューは最後である。“きいのりこ”はマイクを受け取ると、必死の面持ちで話した。
「全国に、出たかったと思うんですよね、その、“山川恵先輩”と、“長野あゆみ先輩”と、“山本愛美先輩”は。」
不自然な文脈だった。どんなインタビューであろうと、全国に出られなかった三人の卒業生を必ずフルネームで紹介するのだと、心に決めていたのだろう。その強く美しい心根に、私は何度も驚かされる。二年生にマイクが回った。
「やっぱ三年生一人というのは、寂しかったと思うんですよ。なんぼ、うちらがそばにおっても。」
三年生は卒業生を思い、二年生は三年生を思いやっていた。いつのまに、なんと温かい集団になっていたことだろう。スタジオの隅で私はうつむいた。幸せで、泣きそうになってしまったからだ。

 番組が終了し、百名の演劇部員がスタジオを去り始めた。その時である。本校一年生の数名が、声を上げて泣き出したのだ。何か言っている。人波の中で彼女らは泣きながら私にこう言うのだ。
「“きいのりこ”が、いなくなる!」

 一年生は、たった今気づいたのだろう。全国は終わった。優秀公演も終わった。もう『ホット・チョコレート』を上演することもない。“きいのりこ”は今日で引退するのである。そんな当然のことにさえ気づかず、無我夢中で駆けてきたのだ。哀しい笑い話である。そうしてさらに笑えることに、それは私もだったのである。それは、不思議なくらいだった。彼女はいつかいなくなる。誰よりそれはわかっていた。だけどそれが今なのだと、どうして気づかずにいられたろう。どうしてたった今の今まで幸せに泣いてさえいられたろう。“きいのりこ”は一年生に囲まれて、涙をこらえて笑っていた。人波に押され、私たちはスタジオを後にした。2000年の夏が、終わろうとしていた。

 卒業式に、“きいのりこ”から『ミオ・ノート』をプレゼントされた。これは『ホット・チョコレート』の小道具のノートだが、練習中からいつのまにか部員たちの落書き帳になっていたものだ。夏以降彼女が家に持ち帰り、一人で日記が続けてあった。9月9日に、こんな文章がある。
「私はアホだから今の今まで気づかなかった。この台本の『キッコ』が先生だったってことを。ちょっと考えたらわかりそうなのに。ホンマにアホじゃなー私は。台本の中で先生が私と同じ歳になって守ってくれた。台本の外でも守ってくれた。『あんた、ばかなんだよ!』って、いっぱい守ってくれていた。ありがとう、先生。」

 そうだ。私は彼女を守るために『ホット・チョコレート』を書いた。芝居の中で、彼女を傷つける者を罵倒し、彼女の清潔さを泣いた。確かに私は『キッコ』として『ミオ』を守ってきたのだろう。だが、もう一つ、彼女の気づいていないことがある。『キッコ』には何かが欠けていたのだ。それは人間として大切なものだ。勉強も小説も音楽もそしてこれから始める「そのどれも、ものにならない」と、彼女は諦めている。それはまさにあの春の私の姿だった。全国大会の分科会で、審査員の鈴江俊郎氏は「よい脚本を書くための二つの条件」を提示された。「強烈なモチベーション」と「自分の天才を信じる心」だそうである。思えばあの時、私はその二つともを彼女からもらったのだった。『ミオ』が『キッコ』を必要としていたのではない。『キッコ』に『ミオ』が必要だったのである。

 卒業式で“きいのりこ”は、部活動の功労賞代表として表彰された。私は彼女に「『余裕を持って、血気盛んに』返事をしなさい。」と言っておいた。卒業式で、彼女の声は、体育館中に響き渡った。返事の声に感動するなんてことがあるだろうか。しかし私は幾人から「あの声に感動した」と聞かされたか知れない。それはまさしく私が「こんなふうにしてほしい」とイメージしたその声だった。彼女は最後まで私の演出に応えてくれた。私が彼女をどんなに誇らしく思うか、おそらく彼女は知らないだろう。『ミオ・ノート』はこう続ける。
「だいじょうぶです!きいのりこは、ずっと失われません!先生はきいのりこを失いません!」
「失うこと」を恐れているのだと、書いたことがある。彼女はそれを覚えていたのだろう。失われないのだろうか。何もかも、なくなったりはしないのだろうか。ふとそんなことさえ真剣に考えてみたくなるほどだ。
 
 今日のカーテンコールには、“きいのりこ”を出そうと思う。「まだ卒業していない。私の卒業式は3月20日。」と、彼女は今日まで言い張ってきた。その3月20日も、ついには訪れる。今日、“きいのりこ”は川之江高校演劇部を卒業する。
 
 どうか惜しみない拍手を。奇跡を起こした、あの小さな少女のために。