前任校で古典を教えているクラスにYという男子生徒がいて、
彼は英語が得意だった。
「先生、古文なんか覚えても今誰も喋ってないやろ? 英語はな、喋っとる人が実際おって、その人らとコミュニケーションできるんで! 絶対英語が大事やろう!」
などというようなことを言い置いて逃げて行ったことがあった。(多分私が古典の宿題を出せとか言ったのだろう。)
私は高校時代英語が得意で、
英語の教員になるか国語の教員になるかはずっと迷っていた。
そう言えば自分はなぜ国語を選んだのだろう。
担任の国語教師はなぜ私に何度も国語をやれと言ったのだろう。
私は性質としておそらく、
コミュニケーションを取ることに重きを置いていない。
必要なのは自分の意志を「彼ら」に「伝える」ことではなく、
その調べの中にある「彼ら」の生き方や考え方を深く「受け取る」ことだ。
英語は伝達手段だからコンテンツとして優れているものもあるだろうがそうでないものが大半だ。(日本語がそうであるように!)
「古典」は違う。
歴史の波に洗われて奇跡のように優れた宝石だけが残っている。
比べられるものではない。
私は同じ古典に何度も何度も感動する。
それだけの力を持っている文章を何度も何度も読み味わう。
いやしかしそんなことは自分としても今になってわかることで、
当時の担任はなんで私に国語の教師になれと言ったのであるのかしらん。
まあ、
どうでもいいのだ本当に。今となってはね!