曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

幸せについて、また、失うということについて (H12.3.1..生徒会誌「門」掲載)

― 失うことを恐れてはいけない。
  失うものは、もとから自分のものではなかったのである。 ―

 去る十二月の四国大会で、私たちは最優秀賞「文部大臣奨励賞」を受賞して、全国大会への出場を決めた。私にとっては川之江高校へ来て以来の悲願だった。二年間、観客の支持を得ながらも審査員から評価されることはなかった。今年にしたところで、四国大会で逆転優勝したものの、県大会では二位だったのである。県の講評では欠点ばかりを指摘されていた。私の信じるものは値打ちのないものなのか、選ばれた学校の芝居がそれほどよいものなのか、自分で自分を信じなければ何もかも崩れていくのに、時に私は自分に疑問を持つようになっていた。

 私が演劇を始めたのは五年前だ。五年前の夏、全国大会が松山で開催され、私はそこで生まれて初めて本物の「演劇」を観た。西条高校に転勤したばかりの頃だ。「高校生にこんなことができるなんて!」と、私は強い衝撃を受けたが、連れて行った部員たちは大胆にも「あんなもの、自分達にもできる。」と言い放った。自分たちだって演劇を観たのは初めてだっただろうに。(演劇部は活動を始めたばかりだった。)しかし若さというのは恐ろしい。彼らは本当に脚本を書き、その言葉通りなんと翌年には(翌年!)、愛媛で初の四国優勝を果たして(初の!)、私を全国大会に連れて行ってくれたのだ。(北海道だった!)まさに「劇」的展開だった。

 思えばすごい生徒たちだった。演劇なんてやったことないから、とためらう私に、「鴻上尚史だって平田オリザだって、何も知らなかった、だから新しい演劇を創ることができたんじゃないですか。」と言った。本当に新しいタイプの演劇を創ろうとしていた。大げさでない、さりげない物言いの、普通に会話しているように見える芝居を。(それは今も私が目指しているものだ。)ほとんどが男子部員で、深い声と自然な演技力を持っていた。その才能。その意欲。傲慢だが私の感覚には絶大な信頼を寄せてくれた。転勤して彼らを「失った」時、私は目の前が真っ暗になる思いがした。

 川之江高校に来て最初に、私は演劇部員に「全国へ行こう。」と言った。今の三年生がまだ新入生だった頃のことだ。いつの間にか、あれから三年が過ぎてしまった。私が迷い、諦めかけた時、いつも彼女らは言った。「先生、全国へ行こう。」どうしたらそんな言葉が出てくるのか見当がつかないような困難な時も、彼女らは「全国」を口にした。私自身が信じられなくなっていた三年前の私の言葉を、彼女らは信じてくれていたのだろうか。

 二学期の終業式、雪が積もった。あれはその翌日、まだ雪が解けきらず、しかし四国大会まであと三日と迫った日だった。三角寺の上に住んでいる生徒が、練習に現れない。三年生である。重要な役で、彼女が来ないと練習にならない。最初腹を立てていた私は、彼女が家を出たのが二時間半も前で、「今日は車がないので歩いて山を下りる、一時間ほどで着く。」と電話をよこしたままであると知って、青くなった。山道では積もった雪が凍っているだろう。どこかへ滑り落ちている可能性があった。こうなったら引き返して家に帰っていてほしい、そう念じて家に電話したが、彼女は帰っていなかった。

「まだ着いてないんですか?」
電話口で彼女のおばあさんに尋ねられて、私は口ごもった。
「あの、道が悪いので引き返しているのではないかと思って・・・。」
その時おばあさんが言った言葉を、私は忘れることができない。
「いえ、あの子は引き返したりしません。」
それから、取るに足らないことを口にするように続けた。
「もうすぐ着くはずです。」
私は、のどが詰まって何も言えなくなった。そうだ、彼女は引き返したりはしないだろう。絶対無事で、今ごろこちらに向かっている。天啓のように信じられた。どうして涙が止まらないのかわからなかった。果たして彼女はほどなく現れ、遅れてすみません、と謝った。靴と靴下がびしょびしょに濡れていた。

 四国大会の講評で、審査員長の西田シャトナー氏は、私たちの芝居を静かな調子で絶賛した。それはもう、絶賛だった。「このような作品を創ったことは、きわめて芸術的な行為であると言わざるを得ません。」「舞台上の時間は真実の連続によって紡がれており、まるでもともと台本がなく、その場で思いついてしゃべっているようにさえ感じられました。」「この芝居は確かにエンターテインメントですが、底を流れているものはアートです。アートとエンターテインメントが見事な贅沢さでブレンドされています。」「ストーリー的に単純な救いがなく、主人公に訪れるのはすべて辛口の結末なのに、『ホット・チョコレート』の甘い雰囲気を残して終わる。次の時代を担っていく可能性が感じられる芝居でした。」シャトナー氏は、私の尊敬する劇作家兼演出家である。この人に否定されたら今度こそ潮時だと思っていた。氏は、私たちが目指していた方向を理解してくれ、そのまま進んでよいと言ってくれたのだった。  
          
 最優秀賞の発表があった時、生徒たちはボーっとしていた。何が起こったのか理解していないようだった。「三位かな?」とかささやき合っている。聞きかねて前の席の男性が振り返る。「あんたら、一位よ。」「え。」そのとたん悲鳴を上げ、「全国?全国?ウソ!」と叫び、それから彼女らはようやく、てんでに号泣を始めた。舞台上の進行と、明らかにずれている。会場は失笑した。もちろん私もだ。来夏の全国大会に出すことを考えると頭が痛んだが、嬉し涙を流す彼女らを見るのは悪くなかった。まったく、悪くない光景だった。長いこと、この光景を見たかったのだ。

 もともと自信があって始めたことではなかった。私を支えたのはいつも生徒だった。私はよく考える。「幸せとは何か」ということについて。また、「失う」ということについて。西条高校の演劇部員を失った時、この喪失を惜しむまいと誓った。失うほどのものは、もともと自分のものではない。もし二度と全国へ行けないのなら、あの時全国へ行ったのも偶然に過ぎなかったのだろう。失ったものが大きかったからこそ、新たに必ず手にしようと思ったのだ。愛媛県二度目の全国出場は成った。そうして今、出場を決めたまま、三年生が卒業していく。三年間、私のような人間についてきてくれたことを感謝する。決して迷わず、決して引き返さない、彼女らがいなければ私は一歩も進むことはできなかった。私は彼女らもまた失う。失うことを恐れてはならないと自分に言い聞かせてきたけれど、私は今、彼女らを失うことが悲しくてたまらない。手に入れても手に入れても失われ続けるもの、それが幸せの姿ならば、人はなんて悲しい営みを続けなければならないのだろう。

 失うことを恐れるほどに愛しい者たちを、私は手に入れ続けてきた。あるいはそれを幸せと呼ぶべきかもしれない。そうしてまた手に入れたいと、愛したいと願うのだ。たとえ失われるとわかっていても。