曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

「車椅子状態」。

このお盆、
川之江駅の階段を、
手すりにつかまりながら一段一段下りて来るおじさんがいて、
既にあと五段ほどだったけれどそのまますれ違うことができずにだいじょうぶですかと声をかけた。
 
私はその階段を2年前だかの冬の朝「テレビの部屋の住人」を支えて1時間以上かけて一段一段上って下りた、
そのことを思い出したから立ち去れなかったのだった。
 
栃木の大学病院に行くところだった。
その頃にはどんどん歩きにくくなっていたけれど恐ろしいほどの努力家だったので、
受診の日に向けて毎日歩く練習をしていた。
外が歩けなくなるとマンションの廊下を何時間もかけて何十往復もしていた。
その朝も始発の電車に間に合うように、
駅の階段は1時間半かかると見越してまだ暗いうちに家を出たのだった。
久しぶりに戸外に出たあの人は見るも無残に緊張して私を頼った。
「車椅子状態」になることを恐れていたからあれほど歩く練習をしたのに、
新幹線に乗るところではとうとう一歩も動けなくなり、
私は駅の真ん中で「助けてくださーい!」と必死で周囲に叫んだのだ。
叫びながらどっかで聞いたセリフだなと思ったら「世界の真ん中で愛を叫ぶ」だったなあと、後から二人でずいぶん笑った。
駅員さんが「車椅子」を持って駆けつけて、
全体重を私に預けてこわばっていた「テレビの部屋の住人」はとうとう「車椅子」に乗せられ、
私は私で駅員さんが車椅子を押す後ろを荷物を持ってついて行くだけでよくなったので、
あんなに乗ることを恐れていたのに、「車椅子」ってなんて楽なんだろう、と二人で言ってこれも笑った。
せっかく栃木まで行ったけれど、
結局は成功率のあまりの低さに放射線治療と化学療法を断って帰って来た。
それは「治癒」はもうない、ということだった。
ただ死ぬまでを少しでも幸せに生きようと決めたということだ。
帰りは駅に連絡して最初から「車椅子」を手配してもらい、
各駅ごとに駅員さんが手伝ってくれた。
川之江駅ではもう階段を通らず線路を横切って車椅子を渡してもらった。
I先生の旦那さんやB先生が迎えに来てくれ車に乗せてくれて家まで送ってくれた。
 
おじさんは、ありがとう、足が悪くて、情けない、とか後は聞き取れなかったけれど笑っていた。
私は、主人も足が悪くて、と言おうとして、死にましたけど、とも言えないことに気づいて黙っていた。
だいじょうぶやから、ともう一度言われて通り過ぎた。