曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

メイキングオブ「きょうは塾に行くふりをして」―コロナ禍の3年間―

 2020年年明けに「それ」はやって来た。2月に定期公演を中止にし、それからまもなくあの突然の休校が始まった。中国で、イタリアで、また日本でも著名人が、バタバタと死んでいると聞こえてきた。高齢の者は重症化して死ぬのらしい。では学校で最初に死ぬのは自分ではないかと怯えたりもしていたのだが、「教員が死ぬのは全然かまわないが生徒に感染させたらただではおかない」と世間は脅してくるのだった。全くやっていられない。私はこれまで十分に頑張ってきたので、あと2年を残して退職しようかとも真剣に考えた。 

 5月に学校が分散登校で再開した。部活動は「3密を避けて実施せよ」とのことである。「3密」とは、当時、「閉ざされた空間に」「多くの人が集まって」「近距離で会話や発声がある」状況をそう呼んだのだが、それはまさに「演劇」を指しているとしか思われなかったから、演劇部を再開することはできなかった。世界で最初に始まったのであろうこの芸術が終わる時代に行き遭わせてしまったのかしらとも思った。あの頃、未来はわれわれの前に黙って大きく黒い口を開いていた。

 だから新入生勧誘は行わなかった。「この状況をのりこえて一緒に活動してくれる熱意のある人待ってます」というポスターだけを貼り出した。密を避けるため「新入部員は5、6名までとさせていただきます」などと勝手なことを書いたのだが、6月初めの部登録当日、果たして男子3名女子3名、新入部員と思しき生徒たちがきっかり6名で現れたではないか。ミナト。いぶき。マルハシ。アイ。チカゲ。イッセイ。2年後、2022年夏の全国総文祭で私たちは最優秀賞を受賞することになるのだが、そのキャスト9名の大半が、この日、練習場所であるこの視聴覚室に自らやって来たのである。

 座付でコーチの越智優が少人数ずつ基礎訓練を施してくれた。6月が終わり、3年生が引退する。練習自体ができないのだから引退公演など不可能に決まっていたが、定演中止の報に涙ぐみながら黙って勧誘動画を創ってくれていた部長を、そのまま引退させることはできなかった。「ほぼ無言で掃除をする」設定とし、でもラストには部長の「大声」のセリフを入れた。本番。ラストシーン。彼女の渾身の呼びかけに、30人の部員たちは次々と平台に乗り込んで「ぎゅうぎゅう詰め」になった。生徒を感染させたりしたらどうする気だ。そしてまた、こんな「3密」極まるところを誰かに見られたりしたらどうするのだ。あの頃、頭の後ろ半分は常にそんな心配で占められていた。こんな世界の片隅の田舎の視聴覚室にまで、見えない圧力は充満していた。もっともこの時実際は、誰かに見られる心配はほぼ無用だったのだ。「無観客」だった。この頃から無観客上演が当たり前となっていく。

 夏、オリンピックが延期となり、演劇部も地区大会が中止になった。秋、「マルハシ」の友人「カズキ」が、バスケ部を辞めて入部してきた。県大会は越智優が「ふぶきのあした」を書いてくれて出場、しかし四国大会は年度をまたいでの延期が決まった。マスクをつけて練習を続けた。部員を半分に割ってそれぞれに別演目を練習させた。せめても片方のチームに観てもらって芝居を上演させるためだった。

 

 マスクをつけた芝居なんて観たくない!

 2021年4月、延期されていた四国大会が観客制限つきで開催され、7月、これも延期を重ねていた定期公演を制限つきで実施した。しかし感染は再び拡大して凶悪なデルタ株に移行、オリンピックは強硬開催されたが、演劇の地区大会は中止となった。私は60歳になっていた。あと半年、どうやって演劇と折り合いをつけていこうか。こんなにも大変な中で活動して、それなのに演劇をやることなんて誰も歓迎していないのだ。ばかばかしくって泣きたかった。

「俺はもう、マスクをつけた芝居なんて観たくないんですよ!」

 叫ぶように、そう越智が言ったのは、県大会の脚本をどうしようかと相談した時だったと思う。大会が迫っても全く書く気配が見受けられなかったので尋ねたのだが、しかし私はその言葉を聞いて、なにかパーッと、霧が晴れていくような気持ちがしたのを覚えている。ああこんな状況でも、この人は書くつもりでいる。そしてそれはなにか非常に明るい、よくわからないがとにかくマスクをつけてない芝居だ。私はそれがやりたい。それがやりたい。でもどうやって? 現代では誰もが必ずマスクをしていて、現代劇でマスクをつけないとすればそれは一つの「嘘」になってしまうのではないか。

「リハーサルの芝居にしようと思うんです。」

 とまた越智は言った。私たちはずっとマスクをつけて練習するが、本番前のリハーサルでだけ、マスクを外して声量を調整する。そうだ、リハーサルならマスクを外せる。リハーサルの芝居だ。明るい芝居だ。演劇部のリハーサルの、明るい芝居を創るんだ。私はなんだか泣きたかった。タイトル候補に「きょうは塾に行くふりをして」とあった。塾に行くふりをしてリハーサルに、そうだ、なにか、どこか「こうではない」世界に、「彼」はふらりと出かけるのだ。そこで何かに出会うのだ。後で聞いた話だが、越智はその時、「リハーサルの話」にするか「塾をサボった生徒の話」にするかを決めあぐねて書けずにいたのだそうである。

「一つの話だとは思いませんでした。」

 信じられないことに、彼はそれから一晩で脚本の3分の2を書き上げ、翌々日には第1稿を完成させた。県大会の5日前だった。

 なんとか県大会を抜けると、台本の書き直しに私も参入した。悩んだのは終盤のリハーサルが止まるシーンである。何があっても「ショウ・マスト・ゴーオン」で走り抜けて来た登場人物たちが、そうも簡単に本番を諦めようとするだろうか。限られたリハーサル時間中にステージ上で各自の思いを吐露し合ったりするだろうか。芝居とはもともと「嘘」ではあるが、それを「嘘」と知られぬように、うまく「嘘」をつきたいものだ、うまい「嘘」でごまかしたいものだ、と私は考え込んでいた。そうして頭を抱えてパソコンに向かっていたある夜のこと、台本の中の「カズキ」が突然、「俺が演劇部に入ってからまともに客入れて芝居打てたことなんて一度もねえ!」と叫んだのだ。いや、実際はもちろん叫んだのではなくふとした流れでそんなセリフを打ち込んだのだろうが、私は驚いていた。これは「嘘」ではなくて、「本当」ではないのか? 彼らはいつも底抜けに明るくて前向きで、だから忘れていたのだが、考えてみればなんと残酷な高校生活を送ってきたことだろうか。それを叫びたいと思うことは、果たしてごまかさねばならない「嘘」だろうか。

 台本は越智から私、私から越智へと受け渡ししながら作っていく。こうして練り直し、また演出を変え、大道具に赤い鳥居を足して個々の場面を作り直していると、あっと言う間に四国大会は来た。だから私たちは大会本番の舞台で初めてこの芝居の全容を知ったようなものだ。観客の反応は予想以上だった。私は基本ギャグにはノータッチなのだが、いったいここまでクリーンヒットするものだろうか。(越智優おそるべし…。)そうしていったん無防備に大きな笑い声を上げてしまった会場は、その後の展開の「嘘」までも非常に寛容に、ふところ深く受け入れたのである。結果は8年ぶりの最優秀で全国出場を決め、行きがかり上、私は定年退職後も学校に残ることになるのだった。

 

 ドラマのような東京全国大会

 2022年4月、延期していた定期公演を実施した。感染はとうとう学校に入って来た。オミクロン株である。弱毒化してはいるらしいが、もちろん練習にはさらに制限がかかった。7月、四国高等学校演劇祭を終えると、全国は目前である。絶対に罹患するなと言い渡した。罹患すればその者だけでは済まされず、いずれ「濃厚接触者」なる者が出現し続けて練習が何週間も止まることになるからだ。最悪それは大会まで続くからだ。本当に、よくぞ、そうはならなかった。自発的に消毒係を作り、熱風の入る窓を対角線上に開け、それでも楽しそうにいつも大笑いしていた。「抜群の仲のよさとうるささを誇る」と自分たちで何かに書いていたが、事実その通りのメンバーだった。一方、肝心の芝居は直前にして行き詰まり、試行錯誤してきたことをいったん白紙に戻した。ホテル入りしても前々日まで台本を直し続けた。

 全国の会場はびっしりと観客で埋め尽くされていた。われわれにとってはそれまでに見慣れた光景だが、後に部長の「イッセイ」が、それが嬉しかった、初めてだったとインタビューに答えている。幕が上がると、最初から好意的な笑いがいくつか起こり、それは「いぶき」の「音楽出ませんかー?」のセリフで爆発した。序盤で緞帳を下ろし始めると、どよめきとともに会場は爆笑と大きな拍手に包まれた。観客は喜んだ。そしてさらに喜ぼうとしていた。なんという明るい芝居だ。ずっと、こんな芝居を観たかったのだ。私はいつから泣き始めていたかわからない。「何か月練習してきたんだよ俺たち!」「なんか思い通りになったことあんのかよこの1年!」愚直に失敗を乗り越え続けてきた登場人物たちが、最後の障壁にリハーサルを止めてしまったとき、これらのセリフは「嘘」ではなく、彼らだけの「本当」ですらなく、観ていた一人一人がこれまで胸の内に抑えてきたそれぞれの「苦しみ」にちがいなかった。そうして部外者の「ミナト」が、照明が、音響が、この世界の外にあるわれわれの思ってもいなかった人々が、われわれの苦しみを静かに理解しエールを送ってくれている、それが観客に伝わるのだ。それも会場を埋め尽くす、彼らにとって初めての、この全国の満員の観客に。

 結果は最優秀、私にとっては全く思ってもみなかった三度目の全国最優秀だった。生徒たちは抱き合って喜んだ。感染対策としてずっと弁当を配布されてはホテルの一室でそれぞれに夕食を摂っていた彼らは、この夜初めてケーキを買い、2,3年生で一つの部屋に集まってささやかなお祝いをしたのだと言う。そのくらい許されてよいのではなかろうかと、翌朝それを聞いた私は思った。しかし冗談のような話だが、なんということだろう、その夜その部屋に集まったなんとほぼ全員が、とうとう「それ」に罹患、それから10日間を寝込んだのである。教頭にはだいぶ絞られた。(全国優勝は褒めてくれなかった。)症状は侮れず、隔離期間が明けてようやく練習に出て来た彼らはみなガラガラ声で、「カズキ」などはすっかり痩せてしまっていた。それでも優秀校公演までには徐々に声も体も本調子となり、彼らはあの国立劇場の満員の観客の前で、また終わらない拍手を浴びることになるのである。

 

 今、思うこと

 2023年春。気がつけば、私は早期退職どころか定年を終えてもまだ非常勤講師として学校に残っている。そうして時々ふと考えるのだ。なぜ彼らはあの日、視聴覚室に来たのだろうかと。また定期公演が、大会が、中止になり延期になり、なのになぜ、あの芝居は最後まで走り切れたのだろうかと。あの頃、何もないところからこの物語は生み出され、多くの人の知るところとなった。また感染が拡大する中、彼らはピンポイントにあのタイミングでのみ罹患して、全国でも国立でも彼らになし得る最高の舞台を披露することができた。なにかデザインされたような、特別な出来事の数々を思うのだ。

 あの時、国立劇場の拍手は鳴り止まなかった。終演し、インタビューが終わり、最後の音楽が流れ始めてもなおしばらくそれは続いていた。おそらく観客は、もう一度舞台の上に彼らを見たかったのだと思う。この暗い現実を闘い抜いて、また希望へとがむしゃらに駆け出して行った彼らの姿を。私はこの間を彼らとともにあった。幸せの定義は人それぞれだが、私は今これを幸せと思う。

 

『コロナ禍三年 高校演劇』所収    2023.8.