昨日は体育祭でした。
演劇部新部長は、二種類ものリレーに出ていて、二種類とも一等だった。
この子はなんで演劇なんかしてるんだろう。
最近、高校生の、獣のような敏捷性に目を奪われてしまうことがよくある。
若さが失われつつあることの一つの表れなのであろうが、
若者の、その若さに感嘆する。
誰が見ていようと見ていまいと力を出し切らずにはいられない、
人を押しのけ、貪欲に勝利を欲する、
絶頂期の生き物の、傲慢な、その湧き上がる、ほとばしる、生きる力に見入る。
昨年度、本校を退学して宝塚に行った生徒がいるのだが、
彼女の弟が、今3年生にいる。
この子はボクシングでプロデビューしている。
お父さんが甲子園投手だったらしくて、野球もうまい。運動能力は抜群だ。
その彼が、応援合戦で「演技」を披露した。
彼は、彼の姉と同様に、呆れるほどに見栄えがした。
しかし彼は「演技」の方面には進まない。
就職する傍ら、ボクシングを続けるのだろう。
自分を「見せたい」という気持ちを持つ者が演劇部には集まる。
しかし皮肉なことに、
皆が「見たい」と思う対象は彼らではなく、
たとえば寡黙な甲子園の投手、
そして彼のようなボクサー、
またはリレーでごぼう抜きする陸上部の生徒。
人は時折、人の「見せたい」という感情に嫌悪を覚えるものだ。
役者という存在は、河原者の昔から、憧れの対象でありながら同時に差別の対象でもあった。
今も、私たちの、「見せたい」者たちへの感情は常に不安定だ。
私はスポーツやスポーツマンを嫌いだが、
体育祭に感動する。
ワールドカップや甲子園やオリンピックに感動する。
人は私よりももっとそれらに熱狂するのだろう。
優秀な感動のコンテンツ、スポーツ。
しかもその上、感動できなくてもかまわないとさえきている。
なんとあれほどに人を感動させるスポーツの目的は、人を感動させることにはないのであるから。
それにひきかえ演劇の目的は、人を感動させることだ。
少なくとも観客に何らかの正の感情を起こさせることだ。
演劇はどうしても観客を必要とし、彼らに好感情を抱いてほしい、
それなのに、
ただそれだけの目的のために存在しているであろうのに、
私たちは容易に人に、あろうことか、嫌悪の念まで抱かせる。
スポーツはモテる男。
演劇はモテない女。