ただいま授業は『羅生門』。
昨日は、ご存じ死人の髪を抜く老婆のセリフからであった。
「ハイ、今日はちょっと体調がいいので先生が読みますね。」
生徒も「そっかー。」という反応である。
「なるほどな、死人の髪を抜くということはなんぼう悪いことかもしれぬ・・・」
こちらとしてもすでに照れとか全然なく、
「私の音読が聞けて当然嬉しいですよねあなたたち」と言ったスタンスである。
下人は老婆のセリフをきっかけに盗人になる勇気を獲得するが、
それは当然道義上よろしくないことで、
生徒は読書に「教訓」やら「道徳」やらを求めてしまうことが多いから、
小説とは、そういうことではないのだぞと、そうではなくてと、
誰に教わったわけでもないがこれが真実なのだと確信して口数多く私はそう話す。
授業が終わると課題を提出しに教卓まで来た女子生徒が問わず語りに『羅生門』が面白かったと私に熱く伝えてくれる。
最初読んだ時はわからなかったけど授業でああそうなのかと思って本当に面白くてとこれも口数多く話してくれる。
私は赤面するでもなくにっこり笑って(マスクで顔は見えないけどね)、
「芥川は短編ばかりですぐ読めるから他のも読むといいですよ。」などと言って教室を去る。
そして「そんなふうに言ってくれるなら来年も教員をやろうかな。」とも思うのである。
私はこどもが苦手だ。
小さなこどもを前にたとえばおおげさな身ぶりや口ぶりでよくわかるように話すことが、
自分の話が当然正しいという前提のもとに彼らに向かって発話することが、
なぜかずっと恥ずかしかった。
自意識の問題だろう。
60歳にしてやっと、
小さな子ではなくて高校生相手ではあるが、
普通の大人として接することができてきたのではないかなと思う。
遠回りな人生であることだ。