この学校に来た頃、
何度も何度も歓迎会やら昼食会やらに誘われた。
「つらいことがあってもね、おいしいものを食べてさえいたら幸せになれるからね!」
と言われて何度も何度もつきあったけど疲れるばかりでちっとも幸せになれなかった。
なぜ幸せになれないんだろう。
それともこれを幸せと呼ぶんだろうか。
自分は我慢が足りなくて幸せに辿り着けないんだろうか。
そう思い続けていたなんとつい先日のこと、
「食べたいと思わない人」みたいなタイトルのネット記事をみつけました。
用意することが面倒、
というよりも食べることそれ自体に興味が薄い、
食べなくてすむサプリメントがあればいいのになどと考えている人までいる、
と書いてある。
あっ、私これや!
記事には「食べることにトラウマがある場合が多い」とある。
私はもとから食が細かったと思う。
ところが親は戦後の食糧難を知る世代なのでそれが気に入らなくてたまらなかった。
「食べよと言ってもらえることがどんなにありがたいことかわかっとらん。」
食事中父親は吐き捨てるようによくそう言った。
申し訳なさが胸にこみ上げると食欲などといったものはさらにどこかへ遠のいてしまう。
おにぎりなら食べられるような気がしたが、
おかずを食べないことを母も快く思わなかった。
食事の途中でごはんをにぎるために台所に行くことを、
許される日と許されない日があった。
さらに給食は一日のうちの一番つらい時間だった。
昭和のことで、
昼休み、放課後まで食べないおかずを食べさせ続けるという事態はよくあった。
だけどそれがつらい記憶というよりも、
毎日の給食それ自体が毎回毎回つらかった。
パンはほとんど食べずに机に隠した。
ずっとずっと、
宇宙食みたいなチューブの栄養素で食事が終わればいいのにと思っていた。
大学時代は一人なので食事は抜きに抜きまくった。(これは楽だった。)
痩せてしまうけれど若いからその頃は不調にはならなかった。
そう考えてみると、
そんな自分が結婚して料理をするということはまたどんなにつらいことだったか。
疲れ切っているところに自分は食べたくもないものを作り続けていたわけなので。
(食べさせられる方も気の毒っちゃ気の毒ですけどでも彼は幸せそうだったのでおいしかったんじゃないでしょうか。)
長い年月をかけてジリ貧に減っていった体重が、
熱中症の後遺症からさらに減ってとうとう36キロになってしまったのが9年前だ。
というか日々命の危険を感じてしまい、
ことここに至ってやっと本気の増量計画に切り替えたのである。
世の中の私の他にもいる「食べたいと思わない人」たちよ、
栄養のあるなしに関わらずとにかく何か食べよう。
自分が食べられそうなものを自分のためだけに食べよう。
お菓子とかでも食べないよりいいんだよ。
ライザップのチラシにさえ「BMIの低すぎる人はタンパク質摂取にこだわらずまず食べることの楽しみを知ろう」とか書いているよ。
私はね、
食事ではなるべくタンパク質を摂って、
あとは間食をするようにしている。
でも食べなくても誰も怒らないし、
食べることはおいしくて楽しいことなんだって最近時々思うよ。