曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

読書の秋~。

読書の秋のこの頃はHRで集団読書するのだが、
その題目が,
去年が原民喜の「草の花」(原爆を扱っている)、
今年が田宮虎彦の「足摺岬」(自殺を扱っている)、
という陰鬱さである。

集団読書用の本は同題目で45冊くらいがセットになった特別なものだから、
題目選択の幅はもともと狭い。
そしてそれらはみな昭和52年発行、
なんと私の高校時代くらいのものが延々と使われているのであって、
多分これはこういう活動が導入されたのがその頃で、
いくら普遍的な素材を探したところで「その頃の」高校生が読むべき本が選ばれているのは仕方のないことなのかもしれない。
自然、シリアスな分野はこのように「戦後文学」と呼ばれるものになってしまったのであるだろう。

さて私が言いたいのはそういう読書体制について云々ということではもちろんなくて、
両主人公の不健康さ、死にそうな加減についてである。
どちらの主人公も「私」であってほぼ作者自身の投影であるが、
(「草の花」は「ほぼ」ですらない)
どちらも今にも死にそうに臥せっているのである。
(「草の花」は死んでしまう)
臥せったまま、
あたりの物音は聞こえているが死の淵に落ちていきそうなその感じ、
それはまさしくここ10年ほど、私が陥っていた状態であった。

今にして思えばそれは「飢え」が原因だったと思う。
私は現在「MEC食」と呼ばれる食事を実践中であるが、
それは糖質制限の一種でとにかくタンパク質を摂取することを主眼とする。
特に私のような小食の者は炭水化物を入れるような胃の余裕はないのであって、
そんなことをしていたら必要なタンパク質が摂れないから「飢えて」いく。
私はこれまでそんな状態にあったのだった。
飢えれば死が近づいてくる。
少しずつ痩せてくる。
身体を動かすことができない。
命のともしびが細っていくのが自覚される。
それがタンパク質の摂取によって生まれ変わるように元気になってきたのである。

昨日夕方視聴覚室を復元しようとして、
私は二つのパイプ椅子を抱え上げては次々長机にセッティングしていった。
もちろん生徒ほどには動けないに決まっているが、
しかし私にとってそんなことはこの5年半できなかったことであった。
死にそうになるたびに何か「千豆(byドラゴンボール)」的なものを欲していたのは、
必要なものを口から摂取するべきという感覚だけは働いていたからであろう。
その命の「千豆」を、
梅干しであろうかゼリーであろうか酵素であろうかと摂取しやすいものから求めていったのであるが、
毎度の食事でタンパク質を増やせばいいことをここにきてようやく知ることができたのである。

足摺岬」の主人公がうなされて目覚め、
枕元に用意されていた冷めたみそ汁で冷や飯をかき込む。
ああダメダメそれじゃ。
肉食べなきゃ肉。
と言っても戦後だしみんな死にそうに貧しいし。
「草の花」に至っては炭水化物さえ食べることができない。
読書の秋は陰鬱である。

でも窓の外は秋晴れで、
久しぶりにたくさん洗濯してシーツが朝日に輝いている。