曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

その声をどう出すか。

耳がいいと言われることがある。
ピアノとか歌とか音楽ばかりやっていたせいか、
音の高低、音色、速さなんかがとても気になる。高低は特に気になる。
「音」というか、芝居だから、セリフの「声」のことである。
 
演劇部を持ち始めたばかりの頃はだから、
こんなふうな声で言ってくれ、と指示することが多かった。
ここはこの言葉の所でこんなふうに高くしてくれ、とか伝えるのである。
声は感情と連動しているから声が「正解」だと感情もうまく流れる。
と、少なくともその頃は思っていたし、当初はうまくいっていた(し、今もうまくいくこともある)。
 
けれどもやがて壁にぶつかった。
役者の感情を置き去りにしていると、
役者はその時だけは正解の声を出す、
そして本番も正解の声を出す、こともあり、なんとそうでない時も、もちろんあったりするのだった。
本番の客席であの程度の感情さえ飲み込めていなかったのかと愕然とするという目に何度も遭った。(とんだ演出をしていたものだごめんなさい。)
逆に役者が腹の底で感情の流れを理解していると、
もしもたとえ私の思う高さ速さの声でなかったとしても、その声はどうしても「正解」だ。
そんな時、客席で震える。
真実が舞台の上で行われているからだ。(もちろん私の思う高さで感動することの方がそりゃ多いですけども。)
 
だから結局、
声のたかひくなんてことは、
それは大切なことだけれどそれはただの結果なんだなと思う。
問題は、役者がその声を「どう」出すか。出すに至るか。
プロの演出とか見ているとそんな当たり前のことが当り前のようになされていて感動したりする。
役者と、セリフの奥のデリケートな感情を理解し合うということは、とても魅力的な行為だ。
それがデリケートであればあるほど魅力的だ。