曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

また国語バナシー?

3年生私立文系クラス。
今、漱石の「こころ」をやっている。
「『進んでいいか、退いていいか、それに迷うのだ』というKの言葉の、『退く』とはどういう意味ですか。はい、Y君。」
「わかりません。」
「わかるんじゃありませんか?Kは恋をしているのだったね。『退く』というのは恋をどうすることかな?」
「諦める!」
「そうですね!」

Yはガッツポーズをして、それから、「おもしろいなあ!」と言った。
彼は中間テストを返した後、
「オレ、現文のテストで50点やか取ったの初めてよ、いっつも30点台やったもん。」
と隣の生徒に話していた。
それからずっと、「こころ」の授業を興味深そうに聞いていた。だから当てたのだ。
「わかりません。」と言われるなんて、思ってもみなかった。

文章というものが、自分が考えて生きている、この世界を表したものなのだということに、
彼は初めて気づいたのだと思う。
彼には正解がわかっていた。
けれども「恋を諦める」などという自分レベルの語句を授業中に答えてよいものかどうかわからずに、今までの習慣どおり「わかりません。」と答えたのだ。
「おもしろいなあ!」という言葉のなんという美しさ。胸が痛くなるほどだ。

鷗外も言っていた。
すべての文章は自分たちの生活を表していて、また、そうでなければその文章には価値がないのだと。
まさに漱石の「こころ」が、そういう「価値ある」文章だったのだろう。
(高校3年生にして気づいたのはそれはまあ遅いのではあるのだけども。)

どんよりとした雨の一日、
授業は詰まっていて仕事も手一杯で放課後は会議だった。
だけどこんな大切な一瞬もあって、
私はなんとか一日をやりおおせるのだろう。