曽我部マコトの言わせていただきます!

そんなに言いませんけど。

曽我部マコトの言わせていただきます!SP ―演劇に出会ってからのこと―

 「演劇をやるとアカになる」というあの有名なセリフを直に聞いたことこそないけれど、確かに愛媛は演劇の盛んな地ではなかったと思う。世事に疎い私など、平成6年に高校演劇の全国大会が愛媛県にやって来るまで、一度もナマの舞台を観ることなく暮らしていたくらいだ。
 
 平成6年、私は転勤してきたばかりの西条高校で演劇部の顧問を命ぜられて困っていた。聞けば演劇部は数ヶ月前に休部状態から息を吹き返したのだと言う。前顧問と前指導者と現部員が集まって、「というわけだからこの演劇部の指導をしてほしい。」と、私に言った。「いやです。」と、私は答えた。
 
 「なんて正直な人だろう。」と、当時部員だった越智優は思ったそうだが、そして他の人は呆れたのだろうが、どう呆れられようと私は自分の手に負えないものを引き受けるわけにいかなかった。前顧問が私を次の顧問にと推したのらしい。確かに私はその頃、前任校の人権劇で近隣から思わぬ評価を受けていた。しかしそれは、生徒指導困難校と呼ばれたその学校で、同和教育のHRに真面目に参加しない生徒をどうするか思い悩み、クラス全員が出演する劇を書けば全員が参加せざるを得ないだろうというところまで追い詰められた、言わば「窮余の」劇だった。一人の同和地区出身の女子生徒をこれ以上泣かせるわけにいかない、ただもうその思いだけで闇雲に突っ走った、そのためだけの、あの時だけの、火事場の馬鹿力でたまたま成功した劇だったのである。心の一番柔らかい部分をさらけ出しながら戦車のように前進しなければならなかった。参観者の涙、生徒の変容、引き換えに思いもよらない多くのものを私はそこから受け取ったけれど、しかしそれらにもう一度触れろと言うなら、いったいこれからどれほど多くの情熱と、時間と、それからあの何かわけのわからない得体の知れないものの存在が必要だろう?

 夏、全国大会はやって来た。手伝いに駆り出され、受付の仕事を終えて、最後の学校の舞台を観た。それは、石原哲也先生の「俺たちの甲子園」だった。初めて観る演劇が、どうしてこの作品だったろう。私は演劇の示す高みの美しさと道のりの遠さに途方に暮れた。その年の「マルモニュース」の表紙は確か、土田峰人先生の「楢山節考」の一場面だったと思う。鬼気迫る写真だった。こんな世界に足を踏み入れたらどこに連れて行かれるかわからない。高校演劇は、思えば総力を上げて私にその力を見せつけていたのだった。生徒が大会に出たいと脚本を選んできたのを、私はどうしてそのままにしておかなかったろう。彼らはどこまでも伸びてゆく若木のように希望にあふれていた。彼らの可能性に私の胸もまた高鳴っていたのだろうか。図書館で、読みつけない「戯曲」を端から読み、石原先生の「それぞれに如月」を見つけた。この脚本で彼らはいきなり四国大会に駒を進め、翌年、そのいきさつを描いた創作劇で、愛媛で初めて四国を抜けた。

 恐ろしいほどの高揚と、時に身も世もないような絶望と。演劇は日常と相容れない。演劇という営みが強いるその感情の落差は、平穏無事にと生きてきた私にとって激しすぎた。川之江高校に転勤し、今度こそ演劇から手を引こうと思ったあの年、私の気持ちを見透かしたように、演劇部は「崩壊」した。大会を前に、部長だった女子部員一人を残して2年生全員が退部したのである。もう一人の女子部員が男子部員全員を引き連れて辞めるという、最悪の形だった。部長はあからさまな悪意に無防備にさらされていた。どんな悪意だったかは、「ホット・チョコレート」の「リカ」役にその名残をとどめている。私があの作品を書いたのは、部長を大会に出すためだ。彼女に一点の非もないのだということを、天に向かって叫びたかった。だって本当にそうだったのだから。突き上げる不条理への怒り、自身のふがいなさへの歎き、わけのわからない、得体の知れない、「激しすぎる」何ものかを身の内に抑えながら、壊れたかけらを拾い集めるようにして芝居を創った。地区を抜け、県を抜けた。この頃から、当時早稲田の学生だった越智優が手伝うようになっていた。大学の劇団よりもこちらの方が面白いと言った。そして芝居は四国を抜け、全国を抜けた。

 国立劇場での公演を終えた時、すでに「七人の部長」の構想はあったと思う。「次の芝居は僕に書かせてください。」とは、越智の方から言い出したことだった。「七人使って、軽い気持ちで観られるものを書いてほしい。」と、私は言った。魂を削るようにして創った芝居に、精も根も尽き果てていたからだ。それにしても、全国最優秀を取った後の脚本など誰も書きたくはないだろう。しかし越智は違っていた。しばらくして渡された原稿は、まさに天衣無縫、全編これでもかと笑いが盛られている。それまで自分が真面目だと感じることはなかったが、越智に比べればやはり教員、型にはまった人間だったとつくづく思った。私はその奔放さに半ば呆れながら、せっかく集まった「部長」たちが出て行かないよう雨を降らせ、会議が「七人」で成立するよう委任状を作り、そして越智に、「会議の終わり方を変えてくれるように」頼んだ。さすがにこの頼みにはしばらく返事がなかったが、送られてきたリライトを見て私は息を飲んだ。ここに尊敬すべき作家がいる。そのことに、私はその時気づいたのだ。この後彼は本校演劇部の「座付き」とも言うべき存在になっていく。
 
 練習は楽しかった。「ホット・チョコレート」で素朴な女子高生を演じ、片桐はいり氏から「この芝居以外の役はやってほしくない」とまで言っていただいたその当の役者たちが、同じ顔で、今は生き生きとコメディを演じているのだった。この面白さをまた全国の人たちに観てもらえたら。そんな贅沢な願いが、その時ばかりはとんとん拍子に叶っていった。「七人の部長」は地区を抜け、県を抜け、四国を抜け、そしてまた、全国を抜けた。二年連続の全国最優秀だった。

 その頃から演劇部は、練習場所として「記念館」と呼ばれる古い建物を使うようになっていた。放課後になると部員たちは律儀に集まり当然のように練習を始める。いつのまにか、演劇部を持ち始めて十四年、川之江高校に来て十一年が過ぎていた。その間、「ホット・チョコレート」、「七人の部長」に続き、01年には「夏芙蓉」、02年に「パヴァーヌ」、03年に「眠る葉子」、04年に「サチとヒカリ」、05年に「商品出納室の人々」、06年に「花柄マリー」、07年に「犬山さんと猫田さん」を大会に送り出し、なんとすべての芝居を四国大会にまで進めたことになる。一つの芝居を創るごとにどれほどのドラマがあったか、演劇部顧問の先生方ならご想像いただけると思う。次大会への道を断たれた作品には、どれも二度と思い出したくない苦さがあり、しかしそれらはその苦さごと、その時々の生徒にとって唯一無二の、生涯一度の、きらめく貴い夢なのだった。「演劇」を求めてここに集まるこの「仲間」たちの情熱と時間とに、そして「激しすぎる何ものか」に、私は今、そしてこの先、果たして応えていられるだろうか。終わらぬ問いを繰り返して、それでも私は演劇を続けようとしている。

 私がどうしようかと迷うたびに、「演劇」はいつも強い力で私の手を引いた。それはもちろん演劇の側の問題ではなく、正しく私自身の問題だった。迷い、逃げるたび、「演劇」は私に問いかけた。もう少し苦しめ、おまえは本当に力を出し切っているのかと。そして立ち止まり、そのただ中に入っていくたび、あふれる歓喜とのたうつ絶望、そしておそらくは何ものにも代えがたい悦楽とも言うべき時を、惜しみなく私に与えてくれるのだ。今までも。そしてこれからもきっと。(「季刊高校演劇」掲載)